(注意。この記事には天気の子のネタバレが含まれています。あまり露骨な言い方はしないようにしていますが、ネタバレしないでは書けないこともあるので……。)
先日、新海誠監督の最新作、「天気の子」を観て来ました。美しい映像、ボーイミーツガールを起点にしたストーリーと、どれをとっても素晴らしい内容だと思います。個人的には穂高のモノローグを多用してくるところは感傷的に過ぎるかなと思わないでもないですが、瑕疵というほどのものではないと思いますね。後半はほとんど気にならなかったし(と言うかモノローグ自体がなくなっていたと思う)。
穂高の選択について
おそらくクライマックスにおける穂高の選択は賛否がありそうな気がしますね(まだWebの感想とかは読んでないのでわからないけど)。
いちおう説明すると、穂高の決断によって生まれた変化があまりにも大き過ぎるのと(世界とは言わなくても、東京の在り方は変えてしまった)、与えた影響が決して良いものではないんですよね。あの決断で多くの人々の生活に問題が出たことは間違いないし、もしかすると死傷者が出ていてもおかしくない。
だから、穂高と陽奈の主人公カップルが特に罰を受けるわけでもなく再会することに納得出来ない人もいるんじゃなかなあ、と思う次第です。
でも、そこがキモなんだよ!
しかしですね、自分はそこがこの映画でもっとも好きな部分なんですよ。いや、逆張りじゃなくて。本当に。
勘違いして欲しくないんですけど、別に穂高の決断が正しいと言いたいわけじゃないです。彼の決断が多くの人々の不幸に繋がった可能性があることは間違いないし、その罪はなんらかの形で償わなければいけないのは確かです。
しかし、それを言うならそもそも陽奈に多くのものを背負わせすぎではないかと。東京の命運を陽奈に背負わせるということは、そもそもが東京の平和な日常が一人の少女の犠牲の上に成り立っていることになる。すなわち、そこに住むということはは無自覚的にでも一人の少女を犠牲にすることに加担しているということになるわけです。
果たして大勢の幸福のために誰かを犠牲することは許されるのか。これについては人によって考えがあると思いますが、すくなくとも、これが「正しい」と言える人はそんなにいないんじゃないかな。なぜなら、その一人が自分だったとして、それを受け入れられるかどうか。大抵の人は納得なんてできなんじゃないですか。もちろん、人々の幸せのために自分を犠牲に出来る人もいるかもしれないけれど、それは本人の意思は素晴らしくとも、犠牲そのものが肯定されるようなことがあってはいけないと思います(そうしないと次の犠牲を積極的に探すことになる)。
だから、陽奈を助けるために穂高がした決断は、決して褒められるものではなかったにしても、間違っていたものではないと思いますね。
拳銃の意味はなんだろう
穂高の決断を考えていく上で重要になるのが‘拳銃“の存在です。冒頭で穂高が手に入れてから、物語上ではほとんど使われることはなく、単にクライマックス前に警察の介入させるための小道具に過ぎないように思えますが、これは思いのほか重要な存在ではないかと思うようになりました。
つまり、あれは言ってみればチートなわけですよ。本来ならあるべきではないズル。本来ならば叶えることの出来ない望みを無理矢理叶えてしまえる力です。穂高は思うように行かない東京での暮らしの中で、よすがとして拳銃をお守り代わりに持っていました。そして陽奈が大人に無理矢理連れさらわれていると誤解した時、助けるために拳銃を撃ってしまいます。本来、ただの子供である穂高が複数の大人を相手取って陽奈を助けることなどできるわけがないんですが(これがアクション映画だったら別ですけどね)、その無理を可能にさせてくれたのがあの拳銃だったのです。
本来は不可能な望みを無理矢理に実現する力。それに該当するものはもう一つあります。すなわち、陽奈の“晴れ女”の力ですね。これは完璧なネタバレになってしまいますが、作中の東京は本来ははるか昔に海に沈んでいる場所なんですよね。それを回避するために代々巫女が生贄となってきました。それが陽奈の“晴れ女‘の力です。本来ならば今の人間にはどうしようもないはずの自然現象を捻じ曲げる力(まあ数年間も降り続ける雨が本当にただの自然現象なのかどうかはともかくとして)。
拳銃を捨てたことの意味
だから、最後に穂高が拳銃を捨てたことの意味があると思えます。陽奈を助けるために行動しているのに、大人たちはみな彼の邪魔をしようとします。それを切り抜けるためには、本来ならば拳銃というチートを使わなくては不可能だった。しかし、穂高は結局のところ拳銃で人を撃つことはしなかった。人間を撃つ度胸がなかったのかもしれないし、弾がなくなっていたのかもしれないけど、とにかく拳銃に頼ることをやめたわけですね。
それは陽奈が巫女であることを否定することにもつながります。つまり、人間はチートを使わなくても生きて行ける。たしかに悲劇は生まれるかもしれないけれども、あるいは穂高には助けてくれる大人がいたように、誰かと助け合うことで乗り越えて行けるかもしれない、ということなのではないでしょうか。
まとめ
とにかく、今回は善悪で語ってはいけない複雑な話になっていたと思いますね。誰もが被害者であり、誰もが加害者になりうる。一方的な正義などは存在しない。それは言ってみれば当然のことで、人々はその上でなにかを選択し、決断をしていたかなくてはならない。そして、その結果が成功だろうと失敗だろうとも受け入れて、責任を取る。それが大人になるということだと思います。
その意味で穂高は自分の責任において陽奈を助けようとしたし、その結果を受け入れて生きていくことを決意していました。つまり、この映画は一人の少年が大人になるまでの物語であったということなのだろう、と思います。
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